埼玉県を中心に展開する常盤珈琲焙煎所は、スペシャルティコーヒーに特化したチェーン業態だ。手がけるのは、これまで飲食や女性向けフィットネスなど複数のフランチャイズ事業を運営してきた富所伸一さん。「FINE COFFEE AT HOMEー(自宅で美味しいコーヒーを楽しもう!)」をコンセプトに、地域密着型の店舗で自ら買い付けたコーヒー豆を焙煎・販売している。
豊富なビジネス経験を生かし、より多くの人にスペシャルティコーヒーの美味しさを届けるべく常盤珈琲焙煎所を立ち上げた富所さん。その心に秘める思いとは。※文中敬称略
美味しいコーヒーを、飲む人の手で
常盤珈琲焙煎所の特色は、スペシャルティコーヒーを扱う店には珍しいチェーン業態であること、そしてイートインではなくコーヒー豆の販売を主力事業にしていることだ。2012年にオープンした一号店の大宮本店をはじめ、10店舗を展開、オンラインでも焙煎豆やドリップバッグの販売を行っている。
コーヒー豆の販売に注力しているのは、家で日常的に美味しいコーヒーを楽しんでもらいたいという思いからだ。
「お店だとその店に行った時しか飲めないじゃないですか。でも家だと毎日飲めますよね。自分の生活が豊かになるのは自分で買ってきた豆でコーヒーを淹れて、少しほっこりした時間が持てる。そういう時だと思うんです。その時間を作るお手伝いをしたいなと思ったんですよね」
富所の言葉通り、常盤珈琲焙煎所には大きなイートインスペースはない。店内ではドリンクの販売も行うが、コーヒー豆の購入者にはドリンク一杯をサービスで提供している。コロナ前に実施していた初心者向けのコーヒーセミナーも近々再開予定だ。
「店頭でハンドドリップをしているのは、家で再現してほしいからです。ドリンクの宣伝よりは見本を見せる意識でやっています。うちの店は全て、家で美味しいコーヒーを飲むために作っています。だからメインはあくまでコーヒー豆。店内で試飲して、あ、こんなに美味しいコーヒーがあるんだ、とか、家でもこんな味が飲めるのかなって購入していくお客さんが多いです。
家でコーヒーを淹れる方でも、店とは味が違うなって妥協しながら飲んでいることは多いと思うんです。でもコーヒー豆さえちゃんと選んで、抽出のちょっとしたコツが分かればお店以上のクオリティで飲むことができます。僕が一番伝えたいのはそこなんです」
ハードルを下げて裾野を広げる
肝になる生豆は、富所自ら中米やアフリカなど現地に買い付けに行き、自分の目で選ぶことが多い。生産者から直接買い付けるダイレクトトレードだ。
「スペシャルティコーヒーの豆を育てる現地の農家はほとんど小規模なんです。実際に訪ねて、生産過程も見ています。ものすごく手間をかけて実を摘んで、気を遣って精製して、という現場を見て、ここまで丁寧にやっているのかと。そういう豆を適正な値段で仕入れたいから現地に行っています。
いいコーヒー豆を適正な値段で出す、僕たちはそこにこだわっています。最高級の豆も扱っていますが、普段コーヒーを飲んでいる方がちょっと買ってみようかなと思えるくらいの価格帯で、質の良い豆を探すことに力を入れています」
仕入れた生豆は季節によってラインナップを入れ替えながら、常時約30種類を店頭に並べている。そして店頭で実際に注文を受けてから焙煎する。緑色の生豆は一般に想像されるコーヒー豆とは異なり、コーヒーに詳しくないと何の店か分からず入店しにくい。焙煎を始めてから手渡すまでの約10分間は、購入者を待たせることにもなる。それでも開店当初からそのスタイルを貫いてきた。
「スペシャルティコーヒーって意識してもらわなくていいんです。なんか面白そうだし一度買ってみよう、くらいの気持ちでいい。なるべくハードルを下げて裾野を広げたいんです。だからオーダーメイドで焙煎して、コーヒー豆の購入者にはドリンクをサービスしています。何を選んだらいいか分からない人には、普段の好みをお伺いしたうえで、こういう豆にチャレンジしてみては、とご提案することもあります」
苦労しても、途絶えなかった希望
2021年11月には川越に新店舗を出店するなど、今でこそ順調に店舗数を増やしているが、一号店の開店当初は全く客が入らず、想像以上に苦戦した。
「一店舗目の時は悲惨でした。本当に売れなくて、辞めたくなりました。とにかくお客さんが店に入ってくることすらないんですよね。ひたすら我慢して待ちながらも、ハンドドリップコーヒーを手頃な価格で提供したり、スタンプカードを作ってみたりといろいろと工夫しました」
それでも、目先の売上を上げるための広告出稿やチラシ配りに活路を見出そうとはしなかった。
「基本的にクチコミで広がればいいなと思っていたんです。地味に長く地元の方々に愛されるお店を作っていきたいから。たまたま近所にお店ができたから寄ってみよう、試飲してみよう、コーヒー豆を買ってみよう、そうやって思ってくれる人が増えたらいいなと」
日々試行錯誤を重ねる中でも、いいコーヒーを広めたいという気持ちは変わらなかった。その美味しさに気づく人が増えるはずだという希望を持ち続けた。
「弱気になったりすることはあんまりなかったですね。というのも、もっとみんなが美味しいコーヒーを飲むようになるはずだ、と思っていたんですよ。だからどこかで少しずつ売れていくんじゃないかなって」
富所の想定通り、2年目3年目を迎えるにつれ、売り上げは少しずつ伸びていった。クチコミで来店する客が増え、今ではリピーターが半数近くに上る。
「みんな最初は味に驚くんですよね。スペシャルティコーヒーなんて普段あまり飲む機会がないですから。そうやって驚いた方々がリピーターになってくれたり、お友達に紹介してくれたりして徐々に広がっていったんだと思います」
フランチャイズの経験を生かし、オリジナルブランドの立ち上げへ
もともと20年以上にわたり飲食や女性向けフィットネスなど複数のフランチャイズ事業を手がけてきた富所。かねてからその経験を生かし、オリジナルのブランドを作りたいと思っていた。フランチャイザーのノウハウをもとにビジネスを行うフランチャイズ事業と違い、立ち上げるところから始めるオリジナルの場合、一から事業を作り込むことができる。
「自分たちの新しいこと、誰も見たことのないようなお店を作りたいっていう気持ちはずっとありました。今までの経験で現場のオペレーションの力はすごくついたし、いろいろと勉強もできたので、自分たちが蓄えてきたものを使って、今度は自分たちにしかできないことをやりたいなと思っていたんです」
そんな折、たまたま訪れたアメリカでスペシャルティコーヒーが普及していく潮流を目の当たりにした。その美味しさを自身の舌でも実感し、日本に広めたいと思ったのが常盤珈琲焙煎所の原点だ。
「昔から、世の中はこういう風になっていくだろう、と予測するのが好きでした。ビジネスも今までになかった新しい切り口があって、長く差別化できる特徴があるものに惹かれます。言ってみればブルーオーシャン型ですね。新しいマーケットがゼロから立ち上がってくるフェーズで参加して広げていくのが好きですし、楽しいなと思います」
2006年に富所がフランチャイズ加盟した女性向けフィットネス事業は、今でこそ日本全国で2000店を超す大事業に成長しているが、当時はまだ国内には一店舗も存在しない、まさに産声を上げたばかりのビジネスだった。
「市場が存在しないに等しいビジネスに参入するときは、うまくいくかどうかもちろんわかりません。結局最後は直感で決めるしかない。コーヒーもそうです。当時スペシャルティコーヒーの知名度は今よりもさらに低く、知っている人はほとんどいなかった。でもこれからは日本でも美味しいコーヒーが飲まれていくようになるはずだ、と思ったんです」
コーヒーの場合は、マーケットへの浸透の仕方がワインと似ていたこともヒントになった。
「日本では、30〜40年前までワインといえば赤か白かの二択で、どこで生産されているかはほとんど誰も気にしていなかった。そこから少しずつフランスやイタリアといった国名が出てきて、ボルドーなどの地方名、それから地域や農園の名前と細かく知られるようになっていきました。当初は愛好家たちだけが知っていたことが段々と一般化してきた。これと同じことがコーヒー業界でも起こるのでは、と思っていました。
コーヒー豆の場合、ワインと違うのはモノによる値段の差がそこまで大きくないこと。日本人は舌がいいので、スペシャルティを知らなくても美味しいコーヒーだってことがわかるんですよね。一度味の違いを体験するとなかなか戻れないと思います」
自分の手で豊かな生活をつくってほしい
より多くの人にスペシャルティコーヒーの美味しさを知ってほしいという思いから、出店場所にはずっとこだわってきた。どの店舗も駅の近くや交通の便が良い場所にあり、散歩途中や仕事帰りにふらっと立ち寄る客も多い。コーヒーに詳しい客もいればそうでない人もいる。だから接客ではなるべく専門用語を使わず、分かりやすく説明している。
スタッフは全店舗合わせて50名ほど。各店舗の状況やマネジメントについて定期的に話し合う機会を設けているが、意外にもコーヒーの知識に関して教育することは少ないという。
「みんなもともとコーヒーが好きなので、そこに関してはこちらからインプットしなくても自分たちで知識を深めていくんです。僕が教えるのはどちらかというと、お店で大事にしている考え方やお客さんのこと。
チェーン業態なので、どこの店に行っても同じ味が飲めるように商品の品質管理は徹底しています。運営も基本的にはフレームワークがあって、どのスタッフがどの店舗に行っても困らないシステムになっている。その一方で、個性が出るのがお客さんとの接点になるところ。例えば店内の飾りつけだったり、接客だったり。各スタッフには小さいことでもいいので自分の担当を持ってもらうようにしています。
やっぱりせっかくなら楽しく働いてほしいんですよね。そのために必要なのは、自分の役割があったり、やっていることが評価されて承認されたりすることだと思うんです。そういうお店づくりは意識しています。社員に限らず、アルバイトだって同じ。お店の飾り付けや発注を任されることで仕事が面白くなる。やりがいを持って働いてもらえたら嬉しいです」
その姿勢は、「自分の手で淹れたコーヒーで日常を楽しんでほしい」という客への思いと重なる。
「やっぱりもっと多くの人に美味しいコーヒーを飲んでほしい。そのために自分たちのできる範囲でできることをやりたいなと思っています。10年前と比べるとスペシャルティコーヒーはずいぶん知られてきましたが、僕の想定ではもっと広がっているはずでした。でも、今後も広がり続けるはずなので、お客さんと繋がる場所は増やしていきたいなと思っています。店舗数が増えるとスタッフの活躍の場も増えますしね」
ささやかだけれども自分の手で生活にゆとりを与え、豊かな日常をつくり出すこと。常盤珈琲焙煎所が提供しているのは、コーヒーを飲む先にあるそんな幸せのつくり方なのかもしれない。
文:KANA ISHIYAMA
編集:中道達也
写真:Kenichi Aikawa
MY FAVORITE COFFEE人生を豊かにする「私の一杯」
夏場に店頭でいろんな種類のコールドブリューを出していたのですが、改めて飲んでみて、水出しコーヒーの美味しさを実感しました。水出しだと、コクが出て甘くなるんですよね。特におすすめなのが、エチオピアのナチュラル。かすかに桃のような香りがして、ゆっくり抽出するので優しい味になるんです。でもやっぱり、一番は、お客さまがご自宅で淹れて感動してくれる一杯ですね。
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