
余計なものは足さなくていい。コーヒーはすでに“語っている”

名前というものは重要である。会社であれ商品であれ、人々にその存在を想起させるために、名前に明確な意味を持たせるのがブランド戦略の一つだ。一方で、あえて名前に特別な意味を持たせないという考え方もある。そんな“個性なき個性”を纏い、「thought leader=思想的リーダー」としての役割を担っているのが、ニューヨーク・ブルックリンのブッシュウィック地区にカフェを構えるSEY Coffeeだ。
ランスとともにSEY Coffeeを創業したトービンの根底には、「際限なくモノを求め続ける狂った消費者マインド」に対する問題意識がある。人間は壊れやすい惑星に生きているーーという生物としての危機感を胸に、持続可能な未来を築くために闘い続けるトービンを動かしているものは何なのだろうか。

“施し”としてのチップはいらない
アメリカではチップ制度が社会の隅々まで浸透している。レストランやカフェなど、サービス業の世界で働く従業員に対して料金の15〜20%をチップとして支払う習わしがある。概してサービス業の基本給は低く設定されており、従業員は顧客のチップに生計を依存しているのが現状だ。チップは雇用主が従業員に十分な給料を払わないための口実になっているという側面もある。
その歪な構造から脱却すべく、SEY Coffeeではチップ制度を撤廃している。労働をサービスの対価と捉え、カフェで働くスタッフのみならず、生産者などの取引先にも適切な対価を払い、持続可能な仕組みを維持するよう努めてきた。

「アメリカでは例えば、癌になった子どものために、コミュニティが資金を集めて治療費を負担したという話があります。『心ある人々が子どもを救った』という美談として語られますが、本来、アメリカの劣悪な医療制度について問い直されるべき話です。
アメリカのチップ制度は一般市民の善意や互助で成り立っている社会システムの象徴です。サービス業で働く人たちも、一生懸命働いて良い仕事をしているのであれば、人にお金を恵んでもらう必要などありません。私たちがやっていることはビジネスであって、チャリティーではないのです。

とはいえ、私たちの取り組みは異質です。はじめて来たお客さんにはいつも戸惑われます。スタッフも、(他のカフェならもらえる)チップがなくてもここで働きたいと思う理由がなければ、辞めてしまうでしょう。だからこそ、オーナーとして、マネージャーとしては、スタッフとのコミュニケーションを大切にして、彼らが気持ちよく働ける環境をつくらなければなりません。
ある意味私の仕事は、作物の種が自然に発芽し、生長していける畑を用意することとも言えます。自分の知覚やスキルが磨かれていて、エンパワーメントされていると感じられる機会を私はスタッフに提供したいのです。個々のスタッフがプロとして成長し続けることは、私たちが生き残っていくために不可欠なプロセスだと思います」


普通の状態に戻したい
20世紀は大量生産・大量消費の時代だった。1913年、アメリカの「自動車王」フォードがベルトコンベア・システムを導入して自動車の低価格化に成功し、大衆化を実現したことを発端に、各業界で生産活動が急激に拡大。消費者は様々なモノやサービスを安価で手に入れられるようになった。たった100年で世界は見違えるほど豊かになったが、それは多くの犠牲の上に成り立ったものでもある。
「現代は、気が狂った消費者マインドに簡単に陥ってしまう時代です。ほとんど使い捨てのようなTシャツを数ドルで販売するファッション業界は最たる例でしょう。よくよく考えると、その製品を生産するのに要した時間、労力、資源は膨大であるにもかかわらず、あまりにも簡単に買えるおかげで、すべてのものが無尽蔵にあり、いくらでも替えがきくと錯覚してしまうのです。

人間の生命は約束されたものではありません。社会として存続させられるかどうかを決めるのは私たち一人ひとりです。私たちは一度立ち止まって現状を見つめ直し、人間の存在が脅かされるような脆弱な環境に置かれていることを認識する必要があります。
ビジネスや農業、労働、社会など、すべての観点でサステナブルな取り組みがなければ、世界は崩壊してしまいます。世の中の大きな流れに抗って持続可能性を取り戻すことこそ私が挑むべき本当の闘いです。私の知る限り、同じようにチップ制度を撤廃した飲食店も何軒かありますが、どこも長続きせず、元に戻してしまった。それだけ多大なエネルギーを要することなのです。
その中でまず、私たちはコーヒーを通して『資源は限りあるものだ』という認識を人々に広めていきたいと思っています。一杯のコーヒーがカップに注がれるまでには、とても複雑なプロセスを経ています。それがどれだけ貴重で贅沢なことかを認識できれば、適正価格を支払うべきだと思うはずです。その動きが広まっていけば、価値基準は量ではなく質にシフトしていくでしょう。

つまるところ、私は社会を普通の状態に戻したいのです。コーヒーの世界では以前、ブランドやバリスタの技術に注目が集まる傾向がありました。あたかも彼らが魔法をかけているかのように見られていましたが、それは幻想にすぎません。
コーヒーは農産物です。特別な可能性を持った種と土地のテロワールが響き合うことで生まれたコーヒー自体が素晴らしいのです。何かを足したり、もっと良くしようとする必要はありません。注目すべきはその個性を最大限活かすように育てた生産者です。

私たちはコーヒーそのものに語らせたいのです。だから発酵によって加えられた味ではなく、本来の味を楽しめるコーヒーを選びますし、焙煎でも生豆の特徴が前面に表れるように水に溶ける物質を多く引き出しています。ブランドの名前をSEYにしたのも、カフェのデザインをシンプルにしたのも根は同じ。コーヒーが生産地から送り出される前にはもう、魔法にかけられているのです」


複雑だから美しい
大学では脚本と哲学を学んだ後、特に明確な意思もなくコーヒー業界に身を置いたトービンだが、「全世界で取引されている」コーヒーの魅力に取り憑かれるまでにそれほど時間はかからなかった。
「コーヒーなら地球の裏側も含めた世界中の地域や多くの人たちに影響を与えられるし、あらゆる所得階層の人と接することができる。奥深くて複雑で、まさに社会の縮図といった在りようがとても美しいと感じたんです。
コーヒーは五感を通して、『私たちは複雑な世界に生きていて、自分たちはその一部である』という事実を強く実感させてくれるものです。『いろんなものが根っこの部分ではつながっていて、この世界は思っているよりもずっと大きなものかもしれない』と思わせてくれるものでもあります。
美しいという感覚は非常に主観的なものです。私にとって“美”とは、時に喜びを、時に悲しみを抱かせるものです。愛や憎しみ、怒り、それらをすべてひっくるめた世界が美しいのです」

トービンは人からよく、「エンパス=人並み外れて共感力が高い人」と言われてきた。他人の感情やエネルギーに敏感であるがゆえに、人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、感じられないものを感じられる。ときに対人関係の悩みとしてあらわれ、“余計な”葛藤をもたらしたその特性を、トービンはコーヒーの世界で生きる強みとしてきた。
「人間はとても希望に満ちた存在だと感じています。想像力が無限にあって、どんなに突拍子もなく、非現実的なことでも信じる力があります。豊かな感情や表現力もあれば、身体能力や他者への思いやりだってある。それらをうまく統合すれば、夢や信念を現実のものにすることができるわけですから。

私自身、人は何にでもなれる可能性があると信じています。だから、指示、命令されたことしかしないロボットや工場の生産ラインのように人を細かく管理したくありません。同じ作業をひたすら繰り返して、一日中同じシナプスが活動しているような状況は、人間のパフォーマンスを損ない、大きなダメージを与えます。人生は一度きりです。自分が最高だと思う人生を、本気で生きるべきだと思うんです」


人間の可能性を信じている
トービンには、20代前半頃、コーヒーの世界に入って間もない時期に経験した忘れられない思い出がある。ごく普通のカフェでバリスタとして働いていた当時、まだ経験が浅く、技術も未熟であるにもかかわらず、マネージャーは自身をトレーナーに登用してくれたのだ。
「最低限の仕事はしていたし、そのうち上達するだろうと思っていました。その仕事が好きだったので、苦労を苦労として感じず、やるべきことを丁寧にやっていました。仕事の成果だけ見れば、私は適任者ではなかったかもしれません。でもきっと彼女は私の人となりを見て選んでくれたのでしょう。彼女が私のことを信じてくれたおかげで、自分はできると思えたんです」

人を雇い、仕事を与える立場になった今、トービンは人がそれぞれの個性を発揮できる機会を提供するよう心がけている。チームの一員としてすぐに活躍できるように、入社後はまず、集中的に新人研修を実施した後、毎週2時間、自身とのマンツーマンの研修に移行する。
「コーヒーのプロとして最も大切なスキルは、コーヒーの味を的確に捉えられること」という考えのもと、??名のスタッフとカッピングセッションを行っているのだ。その中では、コーヒーの抽出方法や品種、気候による影響など、特定の話題について話し合う時間も設けている。
「コーヒーであれ、サービスであれ、チーム運営であれ、課題がある場合は、スタッフ一人ひとりととことん話し合って原因をあぶり出すことでしか健全な関係は構築できないと思っています。ただビジネスとして考えると、そこまでする必要があるのかという見方もできるでしょう。でも私たちは彼らの成長を手助けするためにこそ存在しているのです。最終的にはSEY Coffeeの貴重な戦力になってくれると信じています。

だから仮に、問題が起こってもすぐに『この人はこの仕事に適していない』と決めつけるのではなく、問題の本質や自分自身を見つめ直し、自分が変わらなければいけないのではないかと考えるようにしています。その人は本来、その仕事ができるはずだからです。
どんな結果に対してもオープンであれば、無限の可能性は開かれていくと思います。新しい問題が浮かび上がるたびに、現状を再評価し、特定の構造や通例に縛られることなくベストな方法を導き出せばいいのです。歴史に学ぶだけでは、何も新しいものを創り出せません。あらゆることを再評価する意思を持ったチームメンバー全員が、自らで新しいアイデアを生み出し、直面している課題の解決していく状況が私の理想です」

コーヒーは豆を挽いた粉にお湯を注げば完成する飲み物である。コーヒーは自らについて語ることはなく、大地から生み出されたひとつの農産物としてそこに存在しているにすぎない。だがその一粒ひと粒の声を聞き、物語りを見出し、喜怒哀楽を共にすることで、トービンは「今ここに在ること」への感謝を深めてきた。
「人間は希望に満ちた存在であると同時に、とてもひどい存在だと思います。結局のところ、人間は寄生生物です。この地球から搾取しているものの方が還元しているものよりも多いのですから。
でも人間はその事実を認識することができます。その問題は解決できると考え、状況を変えていくこともできます。私たちには人間がこの惑星に存在し続けられる未来を築く知性が備わっていると思います。人間の脳は、素晴らしい力を秘めているのです」

MY FAVORITE COFFEE人生を豊かにする「私の一杯」
正直、コーヒーの種類も飲む場所もどこだって構いません。食堂でもいいし、ドライブスルーでもいいし、とても素敵なカフェでもいい。社会のあらゆる面とつながっているのだと知覚させてくれるなら、そのコーヒーは美しい一杯になります。 コーヒーを通して、私は人生の複雑さのようなものを楽しんでいるんです。

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