ほぼ独学で焙煎を学んできた浅井寿が、2015年に宮崎県延岡市で創業し、2023年に大分県大分市に移転したレゴリスコーヒー。コーヒーは生活に溶け込んでいることが大切だと考え、誰でも好みの味が見つけられるようにと、常時20種類のコーヒー豆を提供している。
もともと浅井は「こんなに苦くておいしくないものにお金を払いたくない」と思っていた、筋金入りのコーヒー嫌いだった。そんな浅井が、いったいなぜロースターとなり、コーヒーの味をつくる側になったのだろうか。浅井の波乱万丈の人生とコーヒーとの縁を辿っていく。※文中敬称略
あのとき諦めていたら、この景色は見れなかった
延岡市の商業地域から離れた、静かな住宅街に建つ2階建ての古い民家。外観をパッと見ただけでは、まさかこの古い「家」が焙煎所だったとは誰も思わないだろう。
車じゃないと行きづらい場所なのに、敷地の駐車場は1台分しかないという不便さに加え、けっして広くはない店内に、6キロの焙煎機と約2トンの生豆の在庫が詰め込まれるように置かれている。カフェはやらないのかとよく聞かれたが「物理的に不可能だった」と、浅井は笑う。
売上は順調だった。大口の卸売の契約が複数とれたことに加え、ECサイトでの販売にも力を入れてきたおかげだ。こだわったロースターがまちの外れにできたらしいと周辺地域で話題となり、常連客もついた。
一方で、人口約11万人の延岡市だけではビジネスとしての限界も感じた。もともと大分や熊本の客が多かったことから、大分市に広くて大きなロースタリーラボをつくる計画を立て、理想の物件を見つけたのが2022年のことだった。ところが、コロナ禍とウクライナ侵攻による工事の遅延と物価高の影響が、浅井を襲った。
「機材の到着を待っている間に物価はどんどん上がって、空家賃も発生する。工事ができると思ったら、施工会社の職人さんが次々コロナになってしまうし、予定外の出費がかさんで、一時は倒産するしかないと思い詰めたほどでした」
そこで支えとなったのが、これまでの浅井の頑張りを見て、信じてくれた人々の存在だった。クラウドファンディングを行ない、常連をはじめ多くの人が応援してくれたほか、親族も支援を申し出てくれた。周囲の人々の思いを背負った浅井は「やるしかない」と再び自分を奮い立たせ、2023年1月末、予定の約半年遅れで「レゴリスコーヒー・ロースタリーラボ」をオープン。すると、コーヒーのおいしさやスタッフの接客の丁寧さが口コミで評判を呼び、すぐに忙しい日々を送ることになった。
ただ、販売専門店として残した延岡店は、建物の老朽化と台風被害のため、2023年11月に閉店。生まれ故郷であり、創業の地でもある延岡店を残せなかったことには、今も忸怩たる思いが残る。
「閉店を決めたときは泣きそうでした。というか、本気で泣きました」
そのかわり、延岡店で使っていた機材や什器を活用しようと、大分市内に新たに岩田店をオープンした。郊外型の広々としたラボとは違う小さな店舗だが、市の中心部にあり、早くも常連客がついて賑わっている。
「もしあのとき諦めてやめていたら、この景色は見れていなかった。最後まで諦めない気持ちがあれば、壁を乗り越えていくことはできるのだと今は思っています」
ノイローゼになった自分を癒してくれたコーヒー
浅井は一風変わった子どもだった。「みんなと楽しく高校生活を送りたいという気持ちがまったくなかった」といい、高校には進学せず、自力でお金を貯めてイギリスへ留学している。家庭の事情でやむなく半年で戻ってきたあとは、通信制の高校に通った。「興味のあることはなんでもやってみよう」とアイスクリーム屋、たこ焼き屋、重機の運搬会社、アパレル会社などで働いた。
20代も後半になった頃、ひとつだけはっきりしていたのが「接客業がやりたい」という思いだった。そこで浅井は、憧れもあったバーテンダーになったという。
「でもバーテンダーは、給料がめちゃくちゃ安いんです。これは将来性がないなと思っていたときに、地元に大手コーヒーチェーンのお店ができると知って応募したんです」
コーヒーはまったく好きではなかったが、大手だから給料は安定しているし、これまでの接客業の経験やスキルも生かせる。たまたま浅井が求める諸条件に合ったのが、コーヒーショップの仕事だったのだ。
だが、人生はそう簡単には進まない。浅井は入社後、3ヶ月弱で、福岡市内の繁盛店の店長になった。そこは営業時間が1日20時間で、休憩時間もほとんどとれなかった。浅井は、あまりの忙しさにノイローゼ気味になってしまったという。働く中で、少しずつコーヒーのおいしさや面白さがわかり始めてきた矢先のことだった。
「社員ひとりでは厳しいと上層部に伝えても『お前だったら頑張れば何とかなる』と言われて相手にしてもらえませんでした。いつかはフランチャイズで独立できたらとも思っていたけど、それだけ忙しくて月1000万円以上の売り上げを出している店でも、ロイヤリティや人件費を引いたら手元に残る利益は数%。絶望的になったのは今でも覚えています」
ある日、浅井はもうダメかもしれないと思いながら、福岡の街を自転車を押して帰っていた。月を見ながら、働いていた店のコーヒーをひと口飲んだとき、あまりにもおいしく感じられて、仕方なかったのだという。
「そのとき、思ったんですよね。『この味を、自分でつくれるようになったらどれだけ幸せだろう』って」
これが、初めてロースターになりたいと思った瞬間だった。人生でもっとも辛かったときに、嫌いだったはずのコーヒーによって小さな光が射した瞬間。だから浅井は、原点を忘れないために、レゴリスコーヒーのロゴにそのとき見た風景を描いている。
この仕事なら、自分の生きがいにできる
とはいえ、焙煎についての知識や経験はまったくなく、何から始めればいいのか、さっぱりわからなかった。そんなとき、テレビのローカル番組に、福岡県大野城市にある「豆香洞コーヒー」の後藤直紀が出演しているのをたまたま観たのだという。後藤は「World Coffee Roasting Championship 2013」に日本代表として参加すると話していた。
「『うわ、こんなにかっこいい人が福岡におるんや』と思って、店に行きました。そのあと、『何でもいいんで仕事させてもらえませんか』って連絡したんです」
その時は、すぐには雇えないと断られてしまった浅井。大手コーヒーチェーン店はすでにやめていたため、自家焙煎をやっている福岡市内の喫茶店やカフェで働いた。ところが、30歳を過ぎた焦りもあり、どこも長続きせず、いつまで経っても前に進めない自分にイライラしていたという。その後、諦めずに何度か連絡していた豆香洞コーヒーで働けることになった。
「豆香洞に入って、自分がいかに無知だったかはよくわかりました。それまで、勉強もせずに上から目線でものを言っていた自分は、完全にぶっ壊されましたよね。コーヒーの品種による違いや焙煎プロファイルのつくり方、カッピングのやり方、そういう根本的なところが何ひとつわかっていませんでした。豆香洞で焙煎の基礎的な部分が学べたことは、本当に大きかったです」
しかしそこでも、一刻も早く焙煎を学びたかった浅井と、多忙を極めていた店との関係はうまくいかず、3ヶ月で辞めることになった。もはや、いつ挫けてもおかしくない状況だ。それでも、浅井がロースターになる夢を諦めなかったのはなぜなのだろうか。
「豆香洞で、世界トップレベルの焙煎をやるにはこんなにこだわらなくちゃいけないし、こんなこともやらなくちゃいけないんだと、肌で感じられたからだと思います。例えば、生豆を選定するだけでも、生産地はもちろん、その年の状況や精製方法によって味は変わるのでよく考えないといけない。いくらでも突き詰められるからこそ、この仕事なら、自分の生きがいにできると確信したんです。
それと、カッピングに関しては毎回ちゃんと味が取れていました。舌には自信があったから、多くの人に受け入れてもらえるおいしいコーヒーをつくれるだろうと思えたんです」
その後は、地元のロースターで練習させてもらったり、焙煎機メーカーのトレーニングルームを借りたり、自宅で手網を使ってやってみたりと、独学で焙煎の技術を身につけていった。並行して開業準備をすすめ、1年半後に、念願のレゴリスコーヒーをオープンする。
凛とした淀みのない味をつくる
「僕は『凛』っていう言葉が好きなんですね。焙煎によって凛とした淀みのない味をつくっていきたい。だから豆の選別は徹底的にやっています。1杯のコーヒーの中に澄み切った世界をつくりたいんです」
こうした思いをもって焙煎と向き合ううちに、浅井は、焙煎以上に、生豆こそが可能性の塊だと感じるようになった。たった数%、水分量が変わるだけで味が変わり、同じものは絶対にできない。だからこそ、毎回違う作物としての味わいを、どうやったら焙煎によって最大限に引き出せるかを考えるようになった。
「最近はスペシャルティコーヒーが広まって、コーヒーは苦いものじゃないと表現されることが増えてきました。でもレゴリスコーヒーでは、フルーティさや甘味を引き出す焙煎だけでなく、苦味がしっかり感じられるような焙煎もしています。なぜなら豆によっては、メイラード反応を起こす(褐色に変化する)ことで生まれてくる味わいが絶対にあるからなんですね。ポテンシャルが高い豆は、長く焙煎しても個性が残り、研ぎ澄まされた作物としての力があるんです。これもまたすごいことだなって僕は思うんですよね」
そしてもうひとつ、浅井が大事にしているのは、味以外の部分。コーヒーを生活の中に溶け込ませ、ゆっくり味わってほしいという提案だ。
「忙しいときに急いで飲んだコーヒーの味って、誰も覚えていないと思います。だからお客さんにも、焦らずに淹れて、ゆっくり飲むのがいいですよと伝えているんです。コーヒーには依存性がある分、心に寄り添うようなところがあります。心の動きがコーヒーの味わいにつながるのが、コーヒーならではの魅力なんですよね」
まさに浅井が、そのことを誰よりも痛感している。仕事帰りに、月を見上げながら飲んだコーヒーの、疲弊しきった心に染み渡ったおいしさ。あの日、寄り添ってくれたコーヒーがあったからこそ、浅井はロースターになると決意し、道を切り開いてきたのである。
考え方や思いは、物にも伝わる
「倒産も考えるほどの地獄を見てから、儲けることがすべてじゃないという感覚になりました。例えば、この農園のこの人なら信じられるから、何があっても来年もここから豆を買うと決めるようになった。これまではいいものを探しすぎていたし、相手に求めてばかりで自分が努力しているかには無頓着でした。
でも今は、彼らならきっといいコーヒーをつくってくれると信じられるし、何かあって思ったようなコーヒーができなかったとしても、その豆のポテンシャルを引き上げる焙煎をして、支え合っていけばいいと思える。僕が周りの人に助けられたように、結局最後は、人と人のつながりが大切なんですよね。今は、ロースターとして自分が成長するだけでなく、コーヒー業界の歯車のひとつとして日本にコーヒー文化を育てていきたいと考えています」
大手コーヒーチェーン店での辛い日々を経て、思うように焙煎が学べず、やっとの思いでの開業。次のステップへ進もうと思った矢先に、倒産の危機。乗り越えても乗り越えても、新たな壁が迫ってくる。
「『よく諦めなかったね』って誰でも思いますよね。もちろん僕だって、何かあるたびに落ち込んではいるんですよ。でも、あまり悩まなかったんだと思います。人生は選択の連続で、何を選んでも、いいことも悪いことも両方起こる。だったら悩んでいるより、そこから何を学べるのか、どう向き合うのかを考えたほうがいいと思っているんです。
若い頃、重機の運搬会社で働いていた時に、同僚のじいちゃんたちから『楽しくねぇっていう顔して仕事すんな!楽しいやろ?』って言われて『楽しいっすね』って言わされていたんです。それって正直、嘘なんですよね。すごくきつい仕事だったから。でもそのときに、何をやるにしても、物事をどう捉えるかで結果は変わるって気づいたんです」
自分自身の考え方ひとつで、起こった出来事の価値は変わる。人生に無駄はなく、すべては今このときのよりよい糧として、つなげていくことができるのである。
だから浅井は、自らの人生に胸を張る。これまでのすべてを糧にして、思いを込めて焙煎する。「考え方や思いは、物にも必ず伝わると思っています」と浅井。技術だけでなく、ロースターの哲学や思いもまた、おいしいコーヒーを生み出すためには重要な要素なのだ。
文:平川 友紀
写真:JUNKI GOTO
MY FAVORITE COFFEE人生を豊かにする「私の一杯」
バーテンダーの仕事をやっていたとき、バーの隣にある自動販売機で缶コーヒーのブラックボスを買って、仕込みをしながら飲んでいました。感動するほどおいしいコーヒーは、ほかにもたくさん飲んでいます。でも、人生を豊かにした一杯として思い出すのは、疲れた自分を癒してくれたブラックボスなんですよね。その自動販売機は今でもまだあって、通るたびに、あー買おうかなぁって思っちゃいます。やっぱりコーヒーは、いつどこで、どういう気持ちで飲んでいたかが大切なんだと思います。
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