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第9回

先住民の自立の手段として~誇り高きボリビア

TYPICAが2022年10月に東京で行った初の年次総会に、海外から最も多く参加したのはボリビアでした。コーヒーの世界、それも高い精度を求められるスペシャルティコーヒーでは、ほとんど目にすることのない国です。不思議に思えますよね。

主催者によって最もリスペクトされたのもまたボリビアの生産者たちでした。生産者側を代表して壇上に上がりTYPICAの共同創業者、後藤将氏らと対談した男女二人はいずれもボリビア人です。

「名もない小規模生産者に光を当て、世に出したい」と考えて精製所ナイラ・カタを立ち上げたフアン・ボヤンさんは「この3年、スペシャルティコーヒーに取り組んでいます。自分たちが大切にされていると思い、より良い製品を作りたいという意欲が増した」と語りました。精製所の名「ナイラ・カタ」は地元のアイマラ語で「一番になる」を意味します。誠実さと向上心の塊のような人物です。

同じくアイマラ民族出身のナシアさんは「親の時代は生産したコーヒーをチェリーのままで売っていた。今は製品として出荷できるばかりか、自分が作ったコーヒーを飲むことができます」と話します。これは私たち消費者が心して聞くべき言葉です。中南米の多くの地域の小規模な生産者はかつて、心を込めて栽培したコーヒーを自ら味わうことすらできなかったのです。世界経済の不平等の最底辺にいたのが彼らでした。

中南米は世界経済の辺境として扱われてきました。ボリビアは南米のそのまた奥地にあり、長く南米の最貧国でした。つい最近まで政治も経済も混乱し、国民にとって悲惨な状況が続いたのです。中でも先住民のアイマラ民族の人々はスペインによる征服以来、500年間にわたって白人支配のもとで虐げられてきました。存在を半ば消されてきたと言ってもいい。しかし、彼らは紀元前の昔に高い文明を築いた人々の末裔です。

その彼らが民族の誇りを前面に掲げ、コーヒーを通じて経済の自立を目指すようになったのです。アイマラ民族の人々は長い沈黙を経て今、自分たちの存在価値に気づき、存在意義を主張し始めました。それを確立する手だてがコーヒーなのです。

アフリカで生まれたコーヒーは中東で飲料として定着し、ヨーロッパで自由と平等の社会を築く媒介となり、米国で生まれたグローバリズムの波に乗って世界をフラットに塗り替える役割を果たしました。今や日本の若者たちによって、グローバリズムに埋もれていた少数の人々が人間としての存在をアピールする手段になろうとしています。TYPICAがボリビアに光を当てたのは、スペシャルティコーヒーがコーヒー界に人間性という要素を盛り込む新時代を迎えたことを象徴すると、私には思えるのです。

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高山病の恐怖

ボリビアという地域は人間が生きていくうえでいかに大変か。なにせここでは、息をするのさえ難しいのです。

この国に初めて行ったのは1985年の大統領選挙の取材でした。降り立った飛行場は事実上の首都ラパスの郊外で、アンデス山脈の標高4100mの高地にあります。着陸しても飛行機がすぐには止まらず、滑走を続けます。空気が薄いため制動がきかないのです。タラップを下りると風邪をひいたように頭が重く感じます。高山病の症状です。心臓がバクバク連打しています。

脈拍を計ると110。さながら100mを全力疾走した直後のよう。薄い空気を取り込もうと心臓が必死に頑張っているのです。無理してはいけません。近くには標高5181mの世界最高所のスキー場があり、ここで滑った当時の西ドイツの大使は急性心臓まひで、滑りながら亡くなりました。

目の前は白く輝く高峰のパノラマです。正面に標高6480mのイジマニ山がそびえ、足もとのすり鉢状のくぼみにラパスの街並みが広がります。すり鉢の底は飛行場より300m低く、下に行くほど空気が濃い高級住宅地です。中心部の広場にいるハトは空気が薄いので羽ばたいてもなかなか飛べず、石畳の上をヨチヨチ歩いています。ホテルのフロントには長さ1mもある酸素ボンベが備えてあります。泊まった最初の夜、私は危うく死にかけました。

夜中に息苦しくて目が覚めました。ハア、ハアと大声を上げて息をしているのに、空気が口の中に入って来ない。まるで部屋から空気がなくなったかのようです。水面でパクパクする金魚のように喘ぎます。体が危機感を覚えるのでしょう。全身から脂汗がにじみます。チェックインしたときに「何かあったら枕もとのボタンを押して」と言われたことを思い出しました。そのボタンが頭の上にあります。

ところが、金縛りにあったように手が動かない。ああ、このまま死んでしまうのかと思いつつ、そのまま気を失いました。正気を取り戻したのは翌日の昼過ぎです。寝ている間に体が順応したのでしょう。ああ、生きていた…とホッとしました。

Photo: 高台から見下ろすラパスの市街。その向こうにはイジマニ山がそそり立つ=1985年

こんな環境でボリビア高地の人々は暮らしているのです。彼らは高地から低地に下りると逆に酸素過多症になります。酸素が多すぎて息苦しくなるのです。東京にやってきたコーヒー生産者たちは海抜ゼロメートルに慣れるまで、さぞ大変だったでしょう。

何度も訪れるうちに高山病への対処もわかり、到着した日は静かにしていると呼吸困難で悩むことはなく、ちょっとした頭痛で済むようになりました。しかし、この国の困難は自然だけではなかった。それ以上に人災がありました。

Photo: 薄い空気の中で重い荷物を背負う人々=1985年

年率2万%の超高インフレ

現代の世界ではカネがものを言います。しかし、手にしている貨幣の価値がみるみるなくなっていけば、人々はパニックに陥るもの。ボリビアでは1985年9月、年間のインフレ率が2万3447%という途方もない数字を記録しました。

その直前の7月に取材に訪れインフレを体験しました。空港で乗ったタクシーの運転手に通貨ペソの対ドル相場を聞くと「今は1ドルが750ペソだ」と言います。聞いていたより少ない数字なので問い直すと、あまりに多い数字なので最初からゼロを三つ切り捨てていました。本当は75万ペソ。そしてわざわざ「今は」と断るのは、数時間後に変化するからです。頭痛のうえにめまいがします。

両替で手にした紙幣を見ると最高額はなんと100万ペソ。これでも300円程度にすぎません。ホテルで朝食をとり勘定書きの311万ペソという数字を見て一瞬、息が止まりそうになりました。週刊誌を買うと15万ペソと印刷した上に40万ペソの判が押してあります。印刷から発行までの間に貨幣価値が変化したのです。1週間の宿泊費は2億4千万ペソでした。人生で億単位のカネを使うのは、これが最初で最後でしょう。

なぜこんなことになったのか。輸出の二大柱だったスズと天然ガスの国際価格が低迷し、債務を返せなくなりました。労働者は賃上げを求めてゼネストを繰り返し、政府は裏付けのない紙幣を大量に刷ったのです。前年の10倍以上を増刷したため、貨幣の流通量は23倍に膨れ上がりました。インフレは当然です。

Photo: ハイパーインフレ下で最も多く流通していた10万ペソ札。日本円で30円ほどの価値しかない=1985年

経済が不安なら政治も不安です。この国では独立以来、クーデターが190回以上という不名誉な記録があります。民主主義の伝統がないわけではない。むしろ1952年の早い段階でボリビア革命と呼ばれる社会変革を起こし、普通選挙、農地改革、鉱山国有化という三大改革を一挙に実施した実績があります。しかし、非識字率が40%で選挙の意味も徹底せず、農地はあっても耕作技術がないため、改革を生かせませんでした。

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラがボリビアでゲリラ闘争をしたものの農民の支持を得られず、1967年に捕まって射殺されました。その後もクーデターのうわさが飛び交いました。こんな土地で人々は暮らしてきたのです。文字通り、息も絶え絶えに。

Photo: Pavel Špindler
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Photo: 民族衣装で過ごすラパスの市民=1985年

コカ茶とコーヒー

神はボリビアの民に苛酷な運命だけを押し付けたのではありません。高山病を和らげるコカもプレゼントしました。悪名高い麻薬コカインの原料ですが、麻薬にしたら毒になるものの、そのままなら薬なのです。

ラパスの東側のユンガス渓谷地帯には、急斜面にコカの畑が広がります。日本の静岡県の茶畑を見るような景観。そう、コカもお茶の一種なのです。マフィアの手で葉に薬品を加えてコカインを抽出すると麻薬になり、人に害を与えます。でも、自然のままならコカインの成分は少なく、葉をお湯に注げばふだん飲むお茶として重宝されます。

薬効もあって、とりわけ高山病に効きます。私自身、アンデスの高地に足を踏み入れて高山病の症状が出たとき、コカを煎じたコカ茶を飲むように勧められました。飲んでいるうちにくつろぎ、いつの間にか高山病の症状が消えていきます。

農民や鉱山労働者たちはコカの葉をそのまま口に入れて噛みながら仕事をしています。疲れが吹き飛んで仕事に精出すことができます。疲労感だけでなく空腹感や眠気をかき消す効果があるあたりはコーヒーとよく似ています。

しかし、コカの葉で麻薬が作られ、先進国とくに米国の若者がむしばまれました。米国政府はボリビアにコカの撲滅を要求します。ボリビア政府は軍隊を出して火炎放射器でコカ畑を焼き払いましたが、地域が広すぎて撲滅できません。

業を煮やした米国は米軍を派遣してコカ畑の空から枯葉剤を撒きました。まるでベトナム戦争さながら。怒ったのは自分たちの作物を台無しにされた農民たちです。コカ生産組合はエボ・モラレス組合長を先頭に大きな反政府デモを起こしました。

やがてモラレス氏は国会議員となり、社会主義運動党を率いて政治運動に取り組みます。2003年には天然ガスの輸出反対を掲げ、全国規模の抗議行動の先頭に立ちました。その流れで2005年の大統領選挙に立候補し、当選したのです。

世界が驚きました。彼が純粋な先住民のアイマラ民族の出身だからです。白人勢力が常に政権を握って来た国で初めての先住民の政権の誕生です。歴史を変えました。

Photo: Joel Alvarez
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Photo: 大統領選挙で勝利を主張する候補者に声援を送る支持者たち=1985年

アイマラ民族の誇り

モラレス氏は水道も電気も通っていないアンデスの村に生まれ、幼い頃はラクダに似た家畜リャマの世話をして育った人です。大統領就任に先立ってチチカカ湖のほとりにあるティワナク遺跡で、アイマラ民族の儀式を行いました。紀元前200年から13世紀にかけて「太陽の門」などの石造文化が栄えた古代遺跡で、世界遺産に登録されています。真っ赤な祭服を着てピラミッド跡に立った彼は「天然資源の略奪や差別、屈辱の歴史を変えるときが来た」と述べました。議会で行われた正式な大統領就任式では、左手を握りこぶしにして突き上げ、右手は心臓の上に置いて宣誓し、「500年にわたる抵抗運動は無駄ではなかった。この闘いはチェ・ゲバラの戦いの延長だ」と叫んだのです。

2009年、国名が「ボリビア多民族国」に変わりました。新憲法ではスペイン語のほかにアイマラ語など36の先住民の言葉が公用語になりました。第8条で「なまけず、ウソをつかず、盗まず、よく生き、調和ある生活と良き人生、大地を守り、誇りある道、生き方という多民族社会の倫理道徳の原則の尊重、促進」とうたいます。

その中心的にあるのは「よく生きる」という考え方です。先住民に古くから伝わり、母なる大地パチャママを崇め自然と調和して生き、足るを知り他人を思いやるという、日本人の考え方にも通じます。

こうした流れのうえにコーヒー生産があるのです。コカ畑だらけだったユンガス渓谷に今、コーヒー畑が広がっています。東京で開催されたTYPICAの年次総会に参加した生産者の多くがこの地の人々です。彼らが生産したコーヒー豆がラパスのフアンさんの精製所に運ばれ、製品となって世界に輸出されています。

フアンさんは「ナイラ・カタは私の夢と21年間の努力のたまものです。今回の日本への招待は、私の夢がかなったことを示しています。コーヒーを通じて幸せを見つけることができました」と語りました。彼の演説の中に何度も出て来た三つの言葉があります。「尊敬」「誠実」「協力」。

ボリビアのコーヒーは、この言葉を噛みしめながら味わいたいものです。

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国際ジャーナリスト

伊藤千尋

国際ジャーナリスト。1949年、山口県生まれ、東大法学部卒。学生時代にキューバでサトウキビ刈り国際ボランティア、東大「ジプシー」調査探検隊長として東欧の流浪の民「ロマ民族」を調査。74年、朝日新聞に入社しサンパウロ支局長、バルセロナ支局長、ロサンゼルス支局長を歴任したほか、「AERA」創刊編集部員として東欧革命を現地取材するなど、主に国際問題を報道した。2014年9月に退職。NGO「コスタリカ平和の会」共同代表。これまで世界82カ国の現地取材をした。
公式HP https://www.itochihiro.com/